猿板

遊山黒子衆SARUの記録

家から遊山は楽し 考える時

ARC’TERYX:Miura 35

 私は馬鹿で単純だから
高いところが好きかも知れない。
この開けた風景が下界のモヤモヤを
いっぺんに吹き飛ばしてくれます。
◆視線が変わること
 ウチがちっちゃく見える。
この広い大地の上で泣いたり
悩んだりしている事も
何だかちっちゃく思えてきます。

高見山を後に
 キリストやお釈迦様たち賢者は
幸せになるには「不幸」と感じる事を
「幸せ」と思うことだとおっしゃった。

登山もその様なもので
登る労を幸せと思える自分が
自身の喜びを造っているのだろう。
             
人から見て幸せでも辛いと思う人は
自ら不幸を作っているのだろう。
落ち込んだり悔やんだりする事も
自分を過信しているからだろう。
      
◆再び森へ
 今では誰のものかもわからない
江戸の墓石も並ぶ高見山を後に
古い里道をたどり再び森に入る。

薄暗い森でもテンナンショウや
アオキの若葉が春を告げている。



静かな里道を登り
南嶺山塊の稜線へ上がれば


         
 いよいよ
青空に飛び出すのです。



                                      山又山山桜又山桜  阿波野青畝