西赤石山は、元禄3年(1690年)鉱脈が発見され、
翌年から住友の採掘が始まり、
開抗からわずか8年の元禄11年に、
年間産銅量1,500トン以上を記録するなど世界一の銅山として、
昭和48年に別子銅山が閉鎖になるまで栄えた山です。
明治26年には日本初の山岳鉄道を導入し、
産銅量は一挙に5,000トンに達し、
別子の山中には12,000人もの鉱山関係者が住んだと言われています。
海抜1.145mの地帯始まった採掘は、
採鉱場所が海面下1.000mに達し、
坑道の総延長約700km、
世界でも類のない大鉱床であったようです。
昭和48年浸透水と地圧による坑道崩壊の危険などにより、
最後の筏津坑の閉鎖により、歴史に幕を閉じました。
現在も銅山越を挟んで南北の登山ルートには今なお、
当時の面影を残した石垣や坑道跡が残っています。
しかし、足尾銅山で有名な鉱害は、ここでも例外ではなく、
銅の精錬のために、銅山周辺の山林を乱伐したり、
大量の硫黄分や硫酸を含んだ煤煙によって
周辺の森林は大きな被害を受け山は丸裸となり、
保水力を失った山では洪水が頻繁に起こるようになり、
南斜面の目出度町では、大規模な山津波が発生し、
多くの尊い人命を犠牲にしました。
又鉱毒が南斜面の沢に流れ込み、現在でも飲むことは出来ません。
恐ろしげな事を書いてしまいましたが、
現在稜線には、競争相手が居ないせいか、
ツガザクラやアカモノなど、
四国では他に見られない高山植物の群生が見られ、
人によって破壊されたせいで、貴重な植生が見られる皮肉な現象も起こっています。
又、山も自然に帰ろうとしています。
土壌が失われていますが、
土が少なくても、根圏微生物を利用し窒素を吸収することが出来る、
リョウブやヤシャブシなどの植物が森を形成しつつあり、
やがて、これらの落葉により土壌が回復すれば、
ブナのなどの森に帰って行くのでしょうが、
私が見ることはとうてい叶わないことでしょう。
又、地形も面白く、
日本最大の活断層中央構造線の副産物であるこの法皇山地は、
瀬戸内海の標高0mから、一気に1,800m近くまで標高を上げる、
日本では、他に利尻富士と屋久島宮浦岳の、
洋上アルプス以外見られない特殊な地形を持っており、
色んな意味で、他の類を見ない貴重な山域となっています。
すっかり前置きが長くなってしまいましたが、
明日から西赤石山遊山を紹介しますので、宜しくお願いします。