猿板

遊山黒子衆SARUの記録

春の別子銅山遊山 人が生きたこと

森へ

◆牛車道
 長い間多くの人が往来した道です。
今でも石畳が残り道幅も広く
路肩が崩れないように
崖には石垣が組まれています。
 当時男100kg女50kgの荷揚げをしていたと言い
場所によっては2本溝が確認できます。
これは物資の荷揚げのソリで掘れたもので
牛や馬も共に生きていたのでしょう。

◆小足谷劇場と別子尋常小学校

 毎年山神祭りで京都などから役者を呼んで大いに盛った劇場と
明治の頃は児童数300名を超えたと言われる小学校の跡です。
◆接待館

 要人の接待や宿泊に利用した大きな屋敷があり
最盛期は三味線の音が連日連夜響いていたそうですが
今は石垣の上に煉瓦塀の一部だけが残っているだけです。

歓喜坑跡

 元禄3年(1690)に発見された
別子銅山発祥の最古の坑道です。
全ての歴史はここから始まりました。
◆ダイヤモンド水

 地質調査で水脈にあたり
吹き出した水を生活に利用したと言います。
 地中にはダイヤモンドを使用した先端が
残っていると言われその名の由来となりました。
現在も冷たく美味しい水がこんこんと湧いています。

 ちなみに登山道に沿う沢の水は、
今でも残る鉱毒により飲む事は出来ないと言われています。
◆心が繋がる
「蘭塔婆」
 開鉱間もない春、焼鉱窯の飛び火が
131名の犠牲を出す大火となり
住友家はその霊を供養するために
出火場所に近いこの小高い丘の上に
墓所「蘭塔婆」を築きました。
 300年以上昔のことですが
今もその供養は続けられています。

 その山中にあった人々の営みが
今遺跡として森に沈みつつある姿は
人の目には寂しい風景に映るかもしれませんが
ここは人と自然の関わりを肌で感じられる
貴重な場所であると思います。

 やがて道は薄暗い植林を抜け
光が届く稜線が近い事を感じます。
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