猿板

遊山黒子衆SARUの記録

帝の眠る山 後編

石段

◆苦難の道
 阿波山城山から人里離れた
険しい四国山地へ分け入って行きます。
道なき道を行くこの行程は、
壮絶を極めたと言われ、
2年後に一行がこの地にたどり着いたときは、
300余名いた重臣は餓死などにより、
80余名になっていたと言われます。

◆安住の地
 文治三年(1187)八月安徳帝が10歳の頃、
横倉山山頂に建てられた行宮へ移りました。
 横倉山は当時から神秘の山で、
東の嶽、中の嶽、西の嶽の三嶽からなる
峨峨たる山容は「三嶽山」とも呼ばれていました。

 この原生林に覆われた要害の地は、
世を忍ぶには良い場所であり、
そこに建てられた行宮は、
温かい里人や豪族の援助もあって、
これまでの行宮の中で一番立派であったと言われています。

◆横倉宮
 駐車場から1時間足らずで横倉宮に着きます。
ここは平知盛正治2年(1200)に
病により23歳で崩御した帝を
祭ったのがはじまりと言われてます。

 そして背後には「馬鹿だめし」といわれる
垂直に落ち込む80m石灰岩の断崖があり、
神社が切り立った頂の上にあることが解ります。

◆眠るところ
 その奥に安徳天皇陵墓参考地があります。
明治初年、越知村戸長と村人により発見され、
明治18年(1885)宮内省より、
陵墓見込地として宮内省の管轄が確定されました。
その陵墓は静かな森の苔むした石段100余段を上った所にあり
石材で二重の玉垣を巡らしています。

◆手向ける
 残された従臣たちは、
その後一人として山を下りる者がなく、
最後の一人まで御陵を守り続けたと言われ、
帝の御陵をとり巻く七十余基の墳墓となり、
今でも御陵を守り続けているのでしょう。

 そしてこの山に咲く沢山の花達は、
悲運の幼帝に手向けられた、
人々の想いであるように感じました。

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